5月20日の日記
2011年5月20日明日からまた旅行。
先週の大阪訪問はトンボ返りだったうえに、
内容的にも旅行と呼ぶには程遠いものがあったが、
実はその前の週には群馬県へ遊びに行っており、
そのまた前の週には、5月9日のブログでしっかり報告したとおり、
三浦半島への釣り遠征を実施し、
ただ磯ブヨに刺されただけで帰ってきたりもしており、
気がつけばここのところ休みのたびに
どこかへ旅行に出かけているのだが、
明日の旅行にいたってはとうとう仕事をサボってまでいこうとしている。
いやはや、我ながら忙しいもんだ。
まあ、そういうわけで今日はウイスキーも控えめに
なるべく早く床に就こうと思うのだが、
今、一つだけ思い出したことがあるので、
忘れぬうちに、備忘録として書き留めておきたい。
手短に。
群馬県旅行初日。
関越自動車道下り。
訳あって現在免停中のオレは
助手席にすわって、オレらが乗っているのと同じ
「わ」ナンバーのクルマをフロントガラスの先に探し求めて
目をキョロキョロさせている。
カーステレオからは午前中のFM放送が流れているが、
「わ」ナンバー探しに熱中しているオレの耳には、
DJの言葉のほとんどが素通りしていく。
しかし、どうやら新作映画とのタイアップで
赤塚不二夫の特集をしているらしいことは
なんとなくわかっていた。
バカボンの歌がボサノバ風にアレンジされ、
クルマのなかにまったりとした空気をもたらす。
一方で、空気をまったく読めない人間であるオレは
ますます「わ」ナンバー探しに夢中になっていく。
そんなときに
「拝啓 赤塚不二夫様……」
と、DJが語りかけるような調子で話を始めたので一瞬、その声に意識が向かう。
どうやらリスナーからの手紙でも読み上げるらしい。
DJの調子からすると、かなりセンチメンタルな内容の手紙のようだが、
その声が耳に届くことはあっても、けっしてその内容が頭のなか入ってくることはない。それより「わ」ナンバーだ、「わ」ナンバー、、、 と、そのときDJは言った。
「……忘れたくても、思い出せません」
「ええっ?」
と、オレの口から自然に出た。それはオレの口からだけではなかった。
隣で運転している同乗者の口からも同時に出て、
狭いクルマの中で唱和されたのだった。
聞き間違えたのかと最初疑った。しかし、それなら同乗者の口からも
「ええっ?」と出たことはどう説明できるのだろう。
もしかして、この手紙を書いたリスナーがおバカで
日本語の使い方をよく知らないということなのか?
いや、それは有り得ないな。
手紙を書いたリスナーがおバカである可能性は十分ある。
しかし、ラジオ番組には何人もの構成作家がついていて、
DJが読む前には、必ず日本語の正誤を含めたチェックしているはずだ。
ラジオの作家がどれくらい優秀かは知らないが、
少なくとも「忘れたくても」とくれば、
その後に続く言葉くらいは知っているはずである。
ラジオはしゃべり言葉のみなので、
その辺りはオレら「書き言葉」を生業とする者のいい加減さを
反面教師とししっかり見習っているに違いない。要するに、
オレらはやばいことをときに勢いで書いてしまうが、
彼らはめったに言わない。
よって、リスナーおバカ説は却下となる。
ならば、DJが単純に読み間違えた可能性はないか。
この可能性もゼロではないが極めて低い。
「忘れたくても、思い出せません」と声に出して言ってみればすぐにわかるが、
これは非常に違和感を覚える日本語だ。
日本語を読む素人であるオレがそう感じるのに、プロであるDJが何も感じないわけがない。
仮にそのDJが前日失恋かなにかをして、死ぬことしか頭のなかになかったために、
ただ機会的に文字を眼で追っていくことしかできず、読み間違えたのだとしても、
どう読み間違えたのかオリジナルの文章の見当がつかない。
聞き間違えたわけでも、おバカなわけでも、読み間違えたわけでもないということは
これはこれで正しいということだろうか?
オレは少し悩んだ。そして、
そうだろう。それ以外考えられない、と思った。
だいたい「わ」ナンバーの発見に夢中だったので、
この一文の前後を全然知らないのがいけないのだ。
オレはそれから、「わ」ナンバーを見て見ぬフリをしながら、
この一文を次のように言い直して解釈することに決めた。
「忘れたい忌まわしい過去が自分にはあったはず。
しかし、それがなんだったのか思い出すことができない」。
これはまさにフロイトの「抑圧と抵抗」ではないか。
過去に受けた恐怖体験が意識下(=前意識)に留められ、
それが後々、意識上にのぼりつめていくことによる精神疾患。
しかし、そんな辛気臭い話を午前のFMではするものなのか?
しかも、故人である赤塚不二夫先生をダシにして。
こういった疑問がオレのなかには残っていた。
しかし、このときはこれ以外には考えられないので、
とりあえず納得することにして、
いつしか再び「わ」ナンバー探しに没頭していたのであった。
さて、実を言うと、
この駄文を書いているうち
あのときカーステレオから聞こえた
「忘れたくても、思い出せません」が実際はなんだったのかを
もう一度確かめたくなり、
Googleの検索窓にこの言葉を入れてみることにした。
その結果、意外なことが判明した。
さすがはGoogleなんでも出るもんですなあ、と感心した。
そんなことはさておき、
なんとこの言葉はバカボンのパパの有名な言葉だったのだ。
なるほど、その手があったか。
バカボンのパパの狂気の正体はここにあった。
赤塚作品とは、実は常人では理解しがたい一本の整然たる理論の上で成立していた。
さあ、いったい、パパは過去にどんな恐怖体験をしたのだろうか?
しかし、ネットでバカボンについて調べているうちに
いつも以上に遅い時間になり、
いつもと変わらないくらいウイスキーを飲んでいる。
もう寝ます。
先週の大阪訪問はトンボ返りだったうえに、
内容的にも旅行と呼ぶには程遠いものがあったが、
実はその前の週には群馬県へ遊びに行っており、
そのまた前の週には、5月9日のブログでしっかり報告したとおり、
三浦半島への釣り遠征を実施し、
ただ磯ブヨに刺されただけで帰ってきたりもしており、
気がつけばここのところ休みのたびに
どこかへ旅行に出かけているのだが、
明日の旅行にいたってはとうとう仕事をサボってまでいこうとしている。
いやはや、我ながら忙しいもんだ。
まあ、そういうわけで今日はウイスキーも控えめに
なるべく早く床に就こうと思うのだが、
今、一つだけ思い出したことがあるので、
忘れぬうちに、備忘録として書き留めておきたい。
手短に。
群馬県旅行初日。
関越自動車道下り。
訳あって現在免停中のオレは
助手席にすわって、オレらが乗っているのと同じ
「わ」ナンバーのクルマをフロントガラスの先に探し求めて
目をキョロキョロさせている。
カーステレオからは午前中のFM放送が流れているが、
「わ」ナンバー探しに熱中しているオレの耳には、
DJの言葉のほとんどが素通りしていく。
しかし、どうやら新作映画とのタイアップで
赤塚不二夫の特集をしているらしいことは
なんとなくわかっていた。
バカボンの歌がボサノバ風にアレンジされ、
クルマのなかにまったりとした空気をもたらす。
一方で、空気をまったく読めない人間であるオレは
ますます「わ」ナンバー探しに夢中になっていく。
そんなときに
「拝啓 赤塚不二夫様……」
と、DJが語りかけるような調子で話を始めたので一瞬、その声に意識が向かう。
どうやらリスナーからの手紙でも読み上げるらしい。
DJの調子からすると、かなりセンチメンタルな内容の手紙のようだが、
その声が耳に届くことはあっても、けっしてその内容が頭のなか入ってくることはない。それより「わ」ナンバーだ、「わ」ナンバー、、、 と、そのときDJは言った。
「……忘れたくても、思い出せません」
「ええっ?」
と、オレの口から自然に出た。それはオレの口からだけではなかった。
隣で運転している同乗者の口からも同時に出て、
狭いクルマの中で唱和されたのだった。
聞き間違えたのかと最初疑った。しかし、それなら同乗者の口からも
「ええっ?」と出たことはどう説明できるのだろう。
もしかして、この手紙を書いたリスナーがおバカで
日本語の使い方をよく知らないということなのか?
いや、それは有り得ないな。
手紙を書いたリスナーがおバカである可能性は十分ある。
しかし、ラジオ番組には何人もの構成作家がついていて、
DJが読む前には、必ず日本語の正誤を含めたチェックしているはずだ。
ラジオの作家がどれくらい優秀かは知らないが、
少なくとも「忘れたくても」とくれば、
その後に続く言葉くらいは知っているはずである。
ラジオはしゃべり言葉のみなので、
その辺りはオレら「書き言葉」を生業とする者のいい加減さを
反面教師とししっかり見習っているに違いない。要するに、
オレらはやばいことをときに勢いで書いてしまうが、
彼らはめったに言わない。
よって、リスナーおバカ説は却下となる。
ならば、DJが単純に読み間違えた可能性はないか。
この可能性もゼロではないが極めて低い。
「忘れたくても、思い出せません」と声に出して言ってみればすぐにわかるが、
これは非常に違和感を覚える日本語だ。
日本語を読む素人であるオレがそう感じるのに、プロであるDJが何も感じないわけがない。
仮にそのDJが前日失恋かなにかをして、死ぬことしか頭のなかになかったために、
ただ機会的に文字を眼で追っていくことしかできず、読み間違えたのだとしても、
どう読み間違えたのかオリジナルの文章の見当がつかない。
聞き間違えたわけでも、おバカなわけでも、読み間違えたわけでもないということは
これはこれで正しいということだろうか?
オレは少し悩んだ。そして、
そうだろう。それ以外考えられない、と思った。
だいたい「わ」ナンバーの発見に夢中だったので、
この一文の前後を全然知らないのがいけないのだ。
オレはそれから、「わ」ナンバーを見て見ぬフリをしながら、
この一文を次のように言い直して解釈することに決めた。
「忘れたい忌まわしい過去が自分にはあったはず。
しかし、それがなんだったのか思い出すことができない」。
これはまさにフロイトの「抑圧と抵抗」ではないか。
過去に受けた恐怖体験が意識下(=前意識)に留められ、
それが後々、意識上にのぼりつめていくことによる精神疾患。
しかし、そんな辛気臭い話を午前のFMではするものなのか?
しかも、故人である赤塚不二夫先生をダシにして。
こういった疑問がオレのなかには残っていた。
しかし、このときはこれ以外には考えられないので、
とりあえず納得することにして、
いつしか再び「わ」ナンバー探しに没頭していたのであった。
さて、実を言うと、
この駄文を書いているうち
あのときカーステレオから聞こえた
「忘れたくても、思い出せません」が実際はなんだったのかを
もう一度確かめたくなり、
Googleの検索窓にこの言葉を入れてみることにした。
その結果、意外なことが判明した。
さすがはGoogleなんでも出るもんですなあ、と感心した。
そんなことはさておき、
なんとこの言葉はバカボンのパパの有名な言葉だったのだ。
なるほど、その手があったか。
バカボンのパパの狂気の正体はここにあった。
赤塚作品とは、実は常人では理解しがたい一本の整然たる理論の上で成立していた。
さあ、いったい、パパは過去にどんな恐怖体験をしたのだろうか?
しかし、ネットでバカボンについて調べているうちに
いつも以上に遅い時間になり、
いつもと変わらないくらいウイスキーを飲んでいる。
もう寝ます。
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